石狩にはかつて道内最大級の油田がありました。それを調べるべく石狩の資料館へ。
いしかり砂丘の風資料館
場所は石狩河口地域にあり、弁天歴史通りと弁天歴史公園の一角にあります。
長野商店
資料館の隣に旧長野商店があり資料館の入場料で見学することができます。
長野商店は、越後荒井浜(新潟県聖籠(せいろう)町)出身の長野徳太郎が、明治7年に創業しました。米、塩、呉服、反物のほか、酒造業も営んでおり、当時の石狩町を代表する商家のひとつでした。昭和30年に閉店。その後石狩町に建物が寄贈され、現在地に移築されました。(石狩ファイル0084-01)
石狩油田のジオロジー
ちょうど、資料館では油田のテーマ展が展示されてました。
石狩油田八の沢鉱業所模型が展示されてました。2本の油井と汲み上げるポンプの仕組みが再現されてます。
略歴
発見は安政5(1858)年。幕府の役人荒井金助が厚田望来の海岸にて石油の沸出をしり、山中に発見し、明治に入ると明治5(1872)年、石川善七郎もモーライの海岸に油の浮遊を確認しアイヌ人の案内にて山中で沸出を確認。
このころから、すでに越後から職人を呼び寄せ試掘を試みたが成功に至らず。
明治36(1903)年インターナショナル石油が高岡五の沢を試掘し、噴油第1号となる。この会社は道内各地(清真布、鵡川、厚真、厚田)を試掘。
昭和に入り、産油量は10.27kLを記録し、約250人の従業員になり、その家族も暮らし、商店、学校、神社、娯楽施設が作られ、堀されていた厚田でも、日本石油が試掘し本格的に産油が始まる。手稲に製油所に建設し、パイプラインも敷設されました。
埋蔵量は多くはなくその後、産油量は次第に減少し、昭和35(1960)年に操業を終了し、厚田もその翌年に終了しました。
2つの油田が操業を停止する頃、生振から札幌茨戸にわたる地域で茨戸油田が操業し、パイプラインが篠路駅まで設置され、室蘭で精製されてました。1971年に操業は停止しております。
厚田の地層
石狩油田、厚田油田、茨戸油田は同じ厚田層で、厚田層のプランクトンが起源で生成された石油が、砂でできた盤の沢層が集め望来層によって閉じ込められたものであります。
縄文時代は石狩市周辺は海であり、海岸線は現在よりも6km内陸にありました。そのため、堆積したプランクトンが石油となりました。
厚田層
「根源岩」で構成された地層で、1000万年以上前の海底に堆積した泥岩で、貝化石が多く含まれている。地層は南側に傾いて札幌方面の地下に続いている。この地層に含まれているプランクトンの死骸が石油の起源と考えられている。
盤の沢層
古潭港北側の海岸に見られる地層。厚田層の直上を覆う、およそ1000万年前〜900万年前の砂岩。貝化石のほか、ハクジラ化石が見つかったことがある。砂粒が集まってできていて隙間が多いため、厚田層から生成されて浮かび上がってくる石油を溜める「貯留岩」の役割を果たしている。
望来層
古潭港南側から望来の海岸に見られる地層。内陸の沢沿いなどにも見られる。盤の沢層の直上を覆う、およそ900万年前〜700万年前に堆積した硬質頁岩と呼ばれる泥岩の一種。多くの貝化石のほか、ウニや甲殻類、魚類や鯨類の化石も産出する。硬質頁岩とは、泥岩が圧力で変化したもので、硬く緻密である。そのため、すぐ下の盤の沢層の中を浮かび上がってくる石油を、蓋をするように集める「帽岩」となっている。石狩油田、厚田油田、茨戸油田の石油と天然ガスは、この望来層の直下や、層内の隙間に集まっている。
湧き出る石油、天然ガス
厚田と石狩油田跡には建物や設備はすでになく、石碑や炉の跡などが残っており、周囲は石油の臭いが立ち込めており、石油や天然ガスが湧き出ているのが確認できます。
探訪
実際に現地に赴いてきました。車で容易に行ける場所なので興味のある方は是非、訪れてください。
参照資料
今回は、いしかり砂丘の風資料館、石狩遺産006号、石狩ファイルNo.0019-01を参考にさせていただきました。
本日のお参り
弁天歴史公園の名所の由来となった「石狩弁天社」。
水の神である「厳島大明神(弁財天)」とチョウザメの神様「妙亀法鮫大明神」など6つの神様が合祀されてます。