五稜郭タワーの戊辰戦争のマンガを読む

五稜郭歴史回廊

 五稜郭タワーには幕末の戊辰戦争にまつわる展示がされてます。その通路にジオラマと4コママンガが16話に渡って面白く解説されてましなので、まとめてみました。展示スペースのパンフレットをもとに解説してます。(画像はクリックで大きくなります。)

亜墨利加船、函館来航

  安政元年に(1854)に徳川幕府は日米和親条約を結び、その調査のために、開港予定の箱館に来航したペリー提督と松前藩の家老のアメリカ軍艦上の対面です。

開港場での交流

  開港した箱館の港には、外国の船乗り水兵がやってきて、日本の商品をお土産として購入し、八百屋のキュウリやなすを食べ、木魚で踊ったりと、和やかな面も見られます。

北の大地を拓くー箱館奉行

   箱館奉行の役割は、開拓や産業の育成だけでなく、函館の防備強化も計画されました。上記は蘭学者の武田斐三郎がヨーロッパ式の城郭(五稜郭)の説明をしている場面です。

幕末の高等教育ー箱館諸術調所

  武田斐三郎が教えた箱館諸術調所は身分に関係なく入門でき、日本各地から学問を志す若者が集まり、オランダ語、航海術、測量、造船、化学など近代日本を支える技術と知識を学ぶことができました。

蝦夷地経営の拠点ー五稜郭築造

  安政4年(1857)に始まった、五稜郭の建設工事は日本の各地から専門の技術者や職人が訪れ、堀や石垣を作る工事や、役所や役人の住む家を建てたり、完成まで7年の年月を費やし元治元年(1864)に完成しました。

旧幕府脱走軍、蝦夷地上陸

  明治元年(1868)10月20日、旧幕府軍は箱館から北に45km離れた鷲ノ木の海岸に上陸。悪天候で多くの犠牲者を出しながら、陸軍の部隊が箱館・五稜郭を目指しました。

五稜郭入城と函館占領

  新政府軍は、守備隊を派遣して脱走軍と対峙しますが、敵ではなく、負けてしまいます。脱走軍の榎本武揚が日の丸の旗を先頭に行進する部隊とともに五稜郭へ入城していきます。

松前攻略・館城の戦い

  脱走軍は松前藩と平和共存を提案しますが、松前藩はそれを拒否。戦いとなり松前は占領され、砦の館城も攻め落とされます。

旗艦開陽、江差港に沈む

  松前攻撃を海から支援するため出撃した、旧幕府軍の軍艦「開陽」は、冬の日本海の嵐に江差の港で座礁してしまいます。土方歳三も、荒波に飲まれていく「開陽」を見て、言葉を失います。

蝦夷全島平定、仮政権の樹立

  全蝦夷地(正確には渡島半島南側)を手にした旧幕府軍は、明治元年12月15日、箱館港で百一発の大砲を撃って勝利を祝います。日本初の入札(選挙)によって、榎本武揚を総裁とする仮政権を樹立しました。

明治新政府軍、反撃開始

  明治2年(1869)3月、春の雪解けとともに、明治政府軍の大部隊が日本海側の乙部の海岸に上陸し、旧幕府軍への反撃が開始されました。陸上部隊を3つに分けて、箱館、五稜郭へと進撃を開始しました。

一進一退の攻防

  箱館の最短ルートである江差山道で、旧幕府軍、陸軍奉行格の土方歳三率いる部隊が陣地を作り新政府軍の大部隊を迎え撃ち、撃退しましたが。新政府軍は二陣、三陣を繰り出し、突破し、五稜郭へと迫ります。

箱館総攻撃

  明治2年(1869)5月11日、箱館と五稜郭を包囲した新政府軍は、総攻撃を開始。新政府軍は、箱館山の裏の絶壁を登り、奇襲攻撃をし箱館を占領。それを知った土方歳三が箱館の奪回に向かいますが、銃で撃たれ、戦死してしまいます。

戦時下の赤十字精神

  新政府軍は、旧幕府軍の箱館病院に突入しますが、病院長の高松凌雲が赤十字精神の大切さを訴え、けが人や病人の命を助けました。新政府軍も納得し患者を救うことを約束します。その後、高松凌雲を通して降伏を勧めます。

五稜郭開城・終戦

 明治2年(1869)5月17日、榎本武揚ら旧幕府軍は、亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日、五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。

静穏

  箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬期間に天然氷の切り出しが行われ、明治4年には本州へ送られて「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業になりました。その後、五稜郭の建物は撤去され、大正3年(1914)に公園、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、歴史を伝えてます。

スライド化

ジオラマとマンガをスライドで一気に見ることができます。

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